『見えないものを探す旅——旅と能と古典(亜紀書房)』の「はじめに」と「あとがき」です。
これは1999年から2009年まで、雑誌『DEN』に連載したものから選んで収録しています。いま話していることのほとんどを、すでにあの頃には書いています。なんとも進歩がない…(笑)。
「はじめに」
「見えないものを探す旅」
旅が好きです。
学生時代は、高尾山から富士山までを何度も歩いて往復しました。そのまま足を伸ばして関西まで歩いたこともあります。故郷、銚子(千葉県)へも、東京から歩いて帰省しました。
中国やチベットを放浪していたときは、大きな都市と都市との移動は列車やバスを使いましたが、隣の町までは歩いて移動しました。
引きこもりの人たちと、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の跡を追って、深川(東京)から平泉まで歩きました。芭蕉が歩いた出羽三山も歩きましたし、マタギの人と白神山地を歩いたりもしました。
私が好きなのは旅です。交通機関を使って点と点とを結ぶ「旅行」よりも、道を塗りつぶすようにして、たらたら、たらたら歩く「旅」が好きなのです。旅はその途中で「なにか」と出会うからです。
それは、ふつうには目には見えない「なにか」です。見えないなにかを探したり、見えないなにかを見たりするのが好きなのです。
「見えないものを探すとか、見えないものを見るなんてできるわけないじゃないか」と言う人がいます。むろん、その「なにか」は(正確にいえば)見えないわけではないし、ないわけでもありません。ただ、ふつうには見えない。見えるということが共有されない「なにか」です。
《旅僧:森田拾史郎・写真》
私たちには、「見えないもの」を見る力が備わっています。「目」を使わないでものを見る力です。
そのひとつが「夢」です。夢を見るとき、人は器官としての目を使いません。夢を「見た」ということは他者に証明することはできませんし、見た夢を共有することもできません。それでもその人が「夢を見た」ということを疑う人はいません。夢は、見えないものでも、確かに見ることができるものがあるということを私たちに教えてくれます。
感覚器官を使わずにものを見るときには、肉体の器官という制限がない分、より自由に見ることができるし、ある意味、本質を見ることができたりもします。だからこそ、古来、夢は重視されてきました。
また、器官としての目が活動しているときでも、それに重なるように見えないなにかを「見る」ことができる人がいます。現代では、そういう人を病気だと言ったり、そのように見えるものを幻影だとか妄想だとか言ったりします。しかし、ある種の薬物の刺激を使うと誰にも見えることはよく知られています。
いや、薬物など使わなくても、私たち日本人はそれが得意でした。
算盤の暗算を子どもの頃に習った人ならば、空中にヴァーチャル算盤を出現させ、そこで計算をするという能力が身に付いているでしょう。空中の算盤に玉を置き、計算結果も空中の算盤を見て答えます。障子の桟などがあるとよりやりやすい。
《水の夢@ワテラス》
私はこれを「脳内AR」と呼んでいます。
日本人は脳内ARを使うことが得意なのです。ですから中国から入って来た庭園は、日本では枯山水になりました。また、能楽の舞台に大道具や小道具を出さないのもそれです。できるだけ背景をシンプルにすることによって、脳内ARを発動しやすくしているのです。
私の好きな旅は、脳内ARを発動させる旅です。ポケモンGOを持たずとも、現実の景色に詩的な情景を重ねる。それが見えないものを探す旅です。
本書は、『DEN~芸能を闊歩する~』という雑誌の連載から選んだものです。『DEN』の創刊は一九九九年。二〇〇九年に休刊宣言をするまでの十年間、五十号続いた雑誌です。
友人が本雑誌の中の私の文章を見つけ、「面白い」と言ってくれました。
読み直してみると、二十年以上も前から「見えないものを探し続けていたんだな」と思いました。そして、いま話していることのほとんどがここに尽くされています。
元はテーマも決めずに、そのとき、その場で思ったことを書いたものですが、本書では、テーマ別に並び替えてみました。
文章にはできるだけ手を加えずに載せましたが、能の用語に関しては説明を一部加えました。
どうぞお楽しみください。
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《奄美大島の弾薬庫:安田登、金沢霞:橋本松吾・写真》
「あとがき」
本書の文章を連載していた『DEN~芸能を闊歩(かっぽ)する~』は、古典芸能である能楽の話題を中心に載せた雑誌でしたが、その執筆者を彩るのは世界免疫学会の会長をつとめられた多田富雄先生(故人)をはじめ、さまざまな文化人、芸術家の方々で、編集人として名前を連ねていたのも、多田先生や児玉信氏、森田拾史郎氏、野村利晴氏と能楽に詳しい人ならば誰でのその名を知っているという豪華面々。
また、雑誌のサブタイトルに「芸能を闊歩する」と謳うように、その内容は能楽に限定することなく多岐に及び、いわゆる「能の雑誌」とは一線を画していました。
私もその末席を汚し「血ワキ肉マウ」という連載を五十回いたしました。
「連載」というものをはじめてしたのも、この雑誌でした。それまでは漢和辞典の執筆に携わったり、ペンネームで3DCGの本を書いたりしたことはありましたが、能について書こうと思ったことは一度もありませんでした。ましてや連載など、文筆家ではない私ができることではないと思っていました。
連載を引き受けることになったのは、多田富雄先生と本雑誌の実質的な編集者である渡辺紀子さん、竹下敏之さんに勧められたことがきっかけでした。
《『一石仙人(多田富雄):森田拾史郎・写真》
多田先生は、東京大学医学部名誉教授というバリバリ理系の方でありながら、能の鼓を打ち、新作能も多く書かれるという近年にはなかなかいないリベラル・アーツを体現する文化人でした。
多田先生と親しくさせていただくきっかけになったのは、脳死をテーマにした先生の新作能『無明の井』で、アメリカの数都市を回るという公演でした。私はその新作能にワキとして同行しましたが、その数年前に東京法規出版から(これもペンネームで)エイズの本を二冊出していました。旅の途中でそのお話をしたところ、先生のご専門である免疫学にも通じると喜んで下さり、公演中に先生がプライベートで行かれたアメリカの医学者の方たちとのパーティにも同席させていただき、いろいろなお話をしました。それがきっかけで連載のお話をいただいたのです。
また、編集者である渡辺紀子さん、竹下敏之さんとは一九九一年にハワイ島であった「皆既日蝕に捧げるイベント」で知り合いました。このイベントは、観客はゼロ。ただただ日蝕にのみ捧げるイベントとして企画されました。企画したのは(株)グリオグルーヴ代表で日本の3DCG業界の黎明期から活躍してきた坂本雅司さんと、韓国音楽プロデューサーの康貞子さん。
イベントには能楽界からも何人かが参加しましたが、メインは韓国のダンサー、洪信子(ホン・シンジャ)さん。その他にドイツのボイス・パフォーマー、ニューヨークの書家などさまざまな分野の人たちがいました。今でこそ能楽界でも他分野とのコラボレーションもよくされるようになっていますが、当時は「そんなもの、まともな能楽師のすることでない」という目で見られていました。ましてや若造の私などが参加したら師匠や能楽界から何を言われるかわからない。
《旅する男:森田拾史郎・写真》
それなのに参加できたのは、その数年前、それまでの人生で最大の危機(これから先はまだわかりませんが)があり、能から離れていたからです。
能から離れていただけはありません。死地を求めて放浪したりもしていました。生きることがどうでもよくなっていた頃でした。すでに能楽師としての人生はあきらめていましたし、人から何かを言われるくらいのことは大したことではなくなっていました。だからといってイベント自体にも大した意味を感じていませんでした。
しかし、このイベントへの参加がきっかけで人生が変わりました。
そのことについて書くには「あとがき」という場所は適切ではないし、正直自分でも何が起こったのかはよくわからないので、ここでは詳述しませんが、少なくとも再び生きていこうと思ったのもこれがきっかけでしたし、お酒が飲めなくなったのもこれがきっかけ。能ではなはなくさまざまなことをしていこうと決めたのもこれがきっかけで、インターネットやテクノロジーと親しむにようになったのもこれがきっかけでした。
やがて能の世界に戻り、再び舞台を勤めるようになりましたが、その数年後にその時に知り合った渡辺、竹下両氏からお話をいただきました。以前でしたら「私などが能のことを書くなんておこがましい」と断っていましたが、このイベントがきっかけでいろいろ吹っ切れていたので、多田先生からのお勧めもあり、引き受けました。
予想通り、連載中にも、いろいろ言う人がいて、直接、間接に耳に入りました。しかし、言われれば言われるほど燃えるようになったのも、このイベントのおかげだと思っています。
私にとってこの連載は、一度捨てた人生を取り戻すための求道のようないとなみだったと、いま読み返してそう感じます。
自分でも忘れていたこの原稿に目をとめ、書籍として世に出していただける亜紀書房の内藤寛さんに感謝いたします。
《リトアニアでのワークショップ:太田宏昭・写真》