『古典を読んだら、悩みが消えた。~世の中になじめない人に贈るあたらしい古典案内(大和書房)』の「はじめに」と「おわりに」です。

どうぞお読みいただければと存じます。そして、お気に召したら、ご購入いただけると嬉しいです(あるいは図書館に「買って~」とおっしゃってください)。

<はじめに>

「明日、あの人に会うの、イヤだなぁ」という不安、「老後、ひとりで寂しくないだろうか」という心配。上司に怒鳴られるだけでパニックになりそうになる恐怖心。多くの現代人が苦しめられているこのような心の重圧は、はるか昔には存在していませんでした

今からおよそ3,300年前、古代中国の殷(商)の時代に「羌(きょう)」と呼ばれる部族の人たちがいました。彼らは祭礼の生贄として動物たちとともに殺され、神に捧げられました。生贄として殺される部族がいるというのもひどい話ですが、それだけではなく、羌族の人たちは狩猟の際に動物たちと一緒に狩られたりもしたのです。

しかも、かなり長い間、彼らは「狩られる民」としての扱いを受けていたらしい。

この話を聞いたとき、「なぜ羌族の人たちは黙って狩られていたのだろうか」と思いました。唯々諾々と生贄として殺されたのはなぜか。

しかし、牛や豚もそうですね。あるとき、一緒の囲いに入れられた仲間が連れて行かれる。そして帰って来ない。なぜ、牛や豚は叛乱を起こさないのでしょうか。

それは「次が自分かもしれない」という想像ができないからではないでしょうか。未来を認識する力がない。

これは小さい子どもそうです。「お母さんが帰って来るまで、これを食べるのは待っていようね」と言って理解できるのは、ある程度の年齢になってからです。未来を認識し、予測する力を手に入れるは6歳から10歳くらいだと言われています。幼児には時間感覚は希薄です。羌族の人たちは、幼児と同じく未来を認識する力がなかったのではないか、そう思いました。未来がなければ不安もなく、恐怖もありません

過去や未来などの時間を認識する力を、古代中国の人たちは「心」という文字で表しました。「心」がなければ時間がないのですから恐怖心もありません。

ちょっと想像してみましょう。羌族の中に偶然、時間を認識した人が生まれた。「心」が生まれたのです。「ひょっとしたら、明日、自分が殺されるのではないか」と思った。「心」が生まれたことで、今まで感じなかった恐怖心や不安が彼を苦しめたでしょう。

古代中国で「心」はこのように書かれました。


まるで男性性器です。男の子が恐怖を感じたときに「ちんちんが縮こまる」といいます。「心」は恐怖の象徴だったのでしょう

恐怖や不安は伝播します。やがて他の羌族の人たちも自分たちの運命を理解するようになります。「なぜ、こんな苦しみを俺たちに教えたんだ」と皆から責められかもしれません。しかし、羌の人たちはやがてその境遇から脱出する道を考えるようになりました。殷を倒した最大の功労者のひとりである太公望という人は羌族出身だという説もあります

恐怖や不安は未来を変えるための希望の装置なのです。

しかし、それでも恐怖や不安はツライ。それは、「心」が発生当時から持っていた副作用です。それを何とかしようとして書かれたのが第六章で扱う『論語』です。『論語』に限らず、あらゆる古典は心の副作用の処方箋です。古典を読みこみ、副作用への対処さえできれば、私たちは苦しみによって未来を変えることができるのです。

本書がその入り口になれば喜び、これにすぎるものはありません。

『古典を読んだら、悩みが消えた。~世の中になじめない人に贈るあたらしい古典案内(大和書房)』

<おわりに>

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

いかがでしたか。

ちょっと物足りなさを感じたかもしれません。

「具体的にどうしたらいいのか、それを詳しく知りたい!」

そう思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。

実は、本書の原稿はこの倍ほどもありました。しかし、ページ数を増やしてしまうと価格もあがってしま

う。ですから泣く泣く半分ほどに削りました。特に削ったのはエクササイズや実習部分です

しかし、むろんエクササイズも実習も大切です。

そこで、本書ではサポートページを用意しました。エクササイズや実習に関して、詳しく解説したり、音声ファイルを載せたりしています。実際にやってみたいという方は、どうぞこちらをご参照ください。

http://watowa.net/kotenwoyondara/

さて、本書で扱っているものは『論語』から『おくのほそ道』までの古典です。『論語』は、紀元前500年ごろに活躍した孔子やその弟子たちの言行録ですから、いまから2500年も前の記録です。

いまから2500年も前の人の話が書かれた本が今でも残っているのってすごくないですか。現在、出版されている本で、これから2500年後に残っているものはどのくらいあるでしょう。本だけではありません。映画やゲームもそうです。周りを見渡して、2500年後に残っていそうなもの、どのようなものがあるでしょうか。本書で扱っている一番新しい『おくのほそ道』だって300年以上も前のものです。

こんなにも長い間、読まれ続けたので「古典」と呼ばれるようになりました。

「古典」の「古」は、ただ古いだけではありません。もともとはヘルメット(兜)の形だという説があります。ですから、古を囗(くにがまえ)で囲むと「固」になります。固いもの、すなわちも長い時代を経ても変化せずに残って来たの、それが古典です。

古典は、国や政府によって保護されてから残ったわけではありません。能もそうですが、何度も何度も世の中から消えてしまいそうになる危機を経験しました。それでも現在まで残っているのは、人々に愛され続け、そして読まれ続けられたからです。それは、私たちの生活に必要だったからでです

ふだんはその必要性はあまり感じないかもしれません。しかし、人生の危機に直面したとき生きているのが苦しくなったとき古典は生きる知恵を教えてくれます。そして、そうなるまで、余計な手出しをせずに、静かに待っていたくれます。崖から落ちて来そう子を受け止めてくれる「ライ麦畑のキャッチャー」のように。

<サポートページ>

サポートページはこちらです。本文に書ききれなかったことを書いています。→

『古典を読んだら、悩みが消えた。~世の中になじめない人に贈るあたらしい古典案内(大和書房)』