宝塚寺子屋 3月3日(日)~『翁と河勝(梅原猛)』から探る能楽の源流~
3月3日(日)は宝塚の清荒神さんで寺子屋をします。
寺子屋の翌日に坂越(さこし:赤穂)の大避神社(おおさけじんじゃ)にお参りするのですが、坂越というのは能楽の始祖といわれる秦河勝(はたのかわかつ/こうかつ)が流れ着いたといわれる地。そして、この1月12日にご逝去された梅原猛氏は、83歳のときにこの地を訪れたことにより能楽研究に目覚め、それから精力的に能楽に関する研究され、何冊もの著作を書かれました。
今回の宝塚寺子屋では、梅原猛氏の『翁と河勝(うつぼ舟Ⅰ)』の内容と、能の『翁(おきな)』を紹介し、氏が能の源流をどのように考えていたかを見て行きつつ、さらに妄想を膨らませたいと思っています。
そして、これに続く回では、この話をさらに発展させ、宝塚歌劇の話もできればいいなと思っています。
秦河勝と坂越については、寺子屋で詳しくお話しますが、世阿弥と金春禅竹(世阿弥の娘婿)は次のように伝えています(概略のみで失礼します)。
欽明天皇(あるいは推古帝とも)の時代、大和の国の泊瀬川で洪水がありました。
その時、川上から流れて来たひとつの壷があり(桃太郎みたいでしょ)、それを人が拾います。
それを拾ったを世阿弥は「殿上人」と書き、禅竹は、ただ「人」と書きます。
さて、その壺の中には玉のように美しい赤ちゃんがいました。殿上人は「これは天から降ってきた人だ」と朝廷に奏上します。すると帝の夢にこの赤ちゃんが現れて「私は秦の始皇帝の生まれ変わりだ」というのです…と書いたのは世阿弥説。
禅竹の方では、その子が見ている人に憑依して「私は秦の始皇帝の生まれ変わりだ」というのです。どちらにしろ、ただ人ではない。
この子は学才人に優れ、15歳で大臣になり、帝から「秦」の姓を賜ります。これが秦河勝です。この秦河勝は聖徳太子のお側に仕えました。
世の中が乱れたときに、聖徳太子は66番(曲)の舞を作ることを河勝に命じ、66の申楽(さるがく=能)用の面を太子が自ら作られて河勝にお与えになりました。河勝が内裏の紫宸殿で舞うと、世の中は治まり、国々も平穏となったのです。
河勝は80歳を過ぎたころ、その芸を子孫に伝えて「うつぼ舟」に乗って旅立ちました。
そして、着いたのが坂越の浦(赤穂)なのです。
浦の人たちが舟を引き上げて中を見てみると、中の姿は人間とは似ても似つかぬ「もの」になっていました。
そして、それは浦の人々に取り憑いて、祟りました。そこで浦の人たちが立派なお宮を建てて神様としてお祀りすると、国中が豊かになりました。
そして、その宮を「大いに荒れる」と書いて、荒神、すなわち大荒大明神と名付けたのです。
そういえば今回の会場も「清荒神」さんですね。
飛込みも歓迎ですが、参加、お決まりの方はoffice@a-t-n.jpにメールをいただけるとテキストの都合上、助かります。