鳩翁先生、三日間の連続講義、初日のはじまり、はじまり〜!

第一夜の今日は、『孟子』告子編(上)の文章をもとに「心」の問題についてお話をします。

★注意!ブラウザによっては一挙に数回分が再生されて声のリミックスみたいになっちゃうのでご注意ください。現時点でそうなってしまうのが確認されているのはGoogleChromeです。

『鳩翁道話』のテキスト(朗読とはちょっと違う所があるけど気にしないでね)
校訂『心學道話集』 有朋堂文庫版(ネット上でご覧になれます)
・岩波文庫、東洋文庫をはじめ、さまざまな本があります。→amazon
<壱の上>
孟子の曰く、仁は人の心なり。義は人の路なり。その路を捨てて由(よ)らず、その心を放って求むることを知らず。哀しいかな。(『孟子』告子・上)
家業に追われてひまのないお百姓や町人衆に聖人の道を伝えるのが道話。【譬】霍乱(くわくらん)の薬の看板を「はくらん」と書いた名医の話。(04:13)
「仁」とは「無理のない心」をいう。その仕様は「あるべきよう」。そして心学では、これを「本心」という。【譬】扇と見台の話。「性に率(したが)ふ、これを道と謂ふ(中庸)」/ 「鳴滝のよるの嵐にくだかれて散る玉ごとに宿る月かげ」(古歌)(07:37)
「義」とは「無理をしないこと」。そして「宜しい」ようにすること。それが「道」。この道がどこにあるかを考える。【譬】中沢道二先生を饗応する娘と親の話。(06:44)
目のつけようを間違えると大変!前の話に続けて。(04:13)
やはり目のつけようの話。【譬】京と大阪の蛙の話。(03:16)
「おれが、おれが」の話。【譬】大松明の話。「手をつけど目は上につく蛙かな」(05:02)
「おれが、おれが」は頼みにゃならぬ。【譬】サザエの話。「はしなうて雲のそらへはのぼるとも おれがおれがは頼まれはせず」(道歌)(04:21)
<壱の下>

人、鶏犬の放るること有るときは、これを求むることを知る。放心あれども求むることを知らず。学問の道、他なし。その放心を求むるのみ。
人は他人にばかり目を向けて、わが身に立ち返って心を尋ねようとはしない。それを「放心」という。学問の道とは、その「心を尋ね探す」ことに尽きる。【譬】鶏と犬の話(05:32)
乱暴息子の譬(1)乱暴者の誕生と勘当までのいきさつ。放心から起こること。「これほどによれつもつれつする弥陀をあへて頼まぬ人ぞはかなき(徳本上人)」(07:42)
乱暴息子の譬(2)親類一同の集まる勘当の評定の場に、忍び込む息子。「人の性は善なり(孟子)」(05:21)
乱暴息子の譬(3)母親の哀願。迷う親の心。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」(08:47)
乱暴息子の譬(4)大団円。我が身に立ち返ると現れる人、固有の本心。「子にまよふ親の心を見るにつけ我がかぞいろもかくやありなん(石田梅岩)」/「何事のおはしますかはしらね共忝さに涙こぼるる(円位上人)」/「木賊(とくさ)刈るそのはら山の木の間より磨かれ出づる月のさやけさ」(11:21)

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