今日(5月6日)から「100分de名著」の『平家物語』が始まります。
放送は、毎週、月曜日/午後10時25分~10時50分 。再放送は水曜日/午前5時30分~5時55分、午後0時~0時25分…です。
今日のテーマは「光と闇の物語」。
キーワードは「光と闇」、そして「ハブ」です。
●光の貴族、闇の武士
光の貴族、闇の武士の構図がはっきりするのは源平の合戦(治承・寿永の乱)より前に行われた保元の乱のときです。
保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇との戦い。後白河天皇側についたのは平清盛と源義朝(頼朝、義経の父)。ちなみに同じ源平でも平忠正と源為義は崇徳上皇側に付きました。まだ「源氏」対「平家」という構図はできていません。
崇徳上皇側のボスは悪左府(あくざふ)と呼ばれた藤原頼長(よりなが)。大河の『平清盛』では山本耕史が冷徹な藤原頼長を演じましたね。
さて、ある日の崇徳上皇側軍議のとき、そこには源為朝(ためとも)が臨席していました。為朝といえば角の7本ある大蛇を退治した話とか、いろいろ伝説のある豪傑です。弓一本で、300人が乗る船を沈めたという話もあるくらいの強弓使いです。
貴族である頼長は彼に「合戦のやうは、いかがあるべし」と尋ねます。
為朝はいいます。
「自分は幼少から二十数度の大合戦に参加してきました。それまでのことを思うに、これはもう《夜討》以外にはないと存じます。夜が明ける前に、わたくし、為朝が内裏、高松殿に押し寄せて、まず三方に火をかけて、一方を攻めます。火を逃れて向かって来る者は、私の矢で射とめましょう。矢を逃れんとする者は火に焼かれるでしょう。
まあ、敵として手ごわいのは源義朝くらいでしょうか。しかし、私がその内甲を射て射落としましょう。平清盛などの「へろへろ矢(原文ママ)」などは何の事もありません」
しかし、頼長は「夜戦などは、お前ら十、二十騎の私事の戦いですることだ。今回は天皇と上皇の戦い。そんな戦いに夜討などすべきではない。夜の明けるのを待つべきだ」と、それを退けます。
が、結局、相手方の《夜討》にあって負けてしまうのです。
闇での戦いを進言した武士と、光の戦いに固執した貴族の対比が描かれます(『保元物語』)。
●用意とは「意」を用いること
闇の武士を考える上での大切なキーワードが「用意」です。
詳細はテレビやテキストに譲りますが、「殿上の闇討ち」では「用意」という言葉が二度現れます。一度は忠盛(清盛の父)の行為を「かねて用意をいたす」と述べるところ。もう一度は、上皇がその忠盛を「用意のほどこそ神妙なれ」とほめるところ。
用意といえば現代では、「ヨーイ、ドン!」とか、「ちゃんと用意した~?」というときの「準備」と同じ意味で使われたりとか、かなり軽い意味で使われていますが、もともとは文字通り「意を用いる」こと。
辞書によれば「深い心づかいのあること」をいいます。
「深い心づかい」ですよ。そう簡単には使えません。今度「ちゃんと用意した?」と聞かれたら、「いや、まだそれほどでも」と答えましょう(笑)。
それはともかく、武士が未来を考えるときのキーワードは「用意」なのです。
●前例主義としての「参照」
それに対して貴族は「参照」。
貴族にとってももっとも大切なものなもののひとつは「日記」です。そこには過去の儀式でどんな装束を着たとか、どう振る舞ったとかが記されています。いわゆる有職故実というやつです。
いまでいうと、すごいマニュアルを持っているようなものなのです。しかも、先祖代々書き記したものなので、膨大な記憶が蓄積されているアーカイブです。これを知っていると、大事な儀式でもへいちゃらです。
テーブルマナーとか、パーティに出たときの立ち居振る舞いとかね。それも同じです。
江戸時代になると「高家」といわれる家もそれを担当するようになります。有名なのは忠臣蔵の吉良上野介。「ちゃんとお礼をしないと教えないもんね~」と、浅野内匠頭に意地悪をして(史実は違うという説も)、結局は討ち入りで殺されてしまいます。
「過去」を参照して、未来を考えるのが、光の貴族なのです。参照の「照」が光っぽいでしょ。
いわゆる「前例主義」というやつです。
●「意」とは神の声を聴くこと
それに対する武士の「用意」の「意」ですが、よく見ると「音」が入っているでしょ。
漢字学者の白川静氏によれば、「音」という字は「神の音なひ」を示す自鳴の音が加わることを示す字だといいます。日本語でも「おとずれ(音連れ=訪れ)」といいますね。
神様が訪れるときに、音ならぬ音がなる、それが「音」だといいます。
「音」に「門」をつけると「闇」になります。これは先祖の霊や神霊を招く廟門である「門」に、神が訪れた(音)ことを意味する文字です。神を招く儀礼が夜に行われたから「やみ」という意味になったと白川氏はいいます。
ちなみにここでいう「音」とは、「聞こえない音」、サウンド・オブ・サイレンスです。
むろん神の姿も見えない。
すなわち「聞こえない音」を聴き、「見えない姿」を視る、それが「意」なのです。
そして、「聞こえない」神の声を聴くことを「憶度(おくたく)」といいます。
暗闇の武士は、そのような力を持っていたのでしょう。
●忖度ではなく「憶度(おくたく)」
これは何も超能力の話をしているのではありません。
前例主義が役に立つのは、社会がルーチン化している時代においてのみです。
平安末期、時代は想像もできないほどの大変化の中にありました。そんな時代では、過去の参照、前例主義というのはほとんど役に立ちません。
そんなときに力を持つのは前例にこだわらない、そしてエビデンスなんて気にしない、見えないものを視、聞こえないことを聴く力です。武士の闇の力なのです。
そう。「忖度」ではない「憶度(おくたく)」です。
現代はAI革命の時代などといわれています。あらゆる価値観が変わってしまうシンギュラリティの到来を予測する人もいますし、ホモ・デウス化する人間の話なども出ています。しかし、「よくわからない」、でも「なんとなく不安」という人も多いでしょうが、未曾有の大変化の中に私たちがいることはなんとなく感じています。
それは『平家物語』の平安末期に似ています。
前例主義、過去の参照が役に立たない時代が到来しています。
そういう意味でも、『平家物語』を現代において読みなおす意味というのは、とてもあると思うのです。
・100分de名著:5月『平家物語』(3)忖度ではなく「憶度(おくたく)」