2022年12月25日に上演する『銀河鉄道の夜』。当日パンフレットに掲載のヲノサトルさんの文章です。
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誰もが名作と呼ぶ『銀河鉄道の夜』だが、まあ、よくわからない話ではある。
ふと気がついてみると旅は始まっていて、車掌、鳥捕り、燈台守やら博士やら奇妙な人々が、幽霊のようにぼんやりと現れては去っていく。銀河ステーションだのアルビレオの観測所だの、名前を聞いても景色の想像もつかないような場所を、列車は静かに通り過ぎていく。一般によく知られる賢治の第4次稿(最終稿)では、ジョバンニが目ざめたら現実のカムパネルラは死んでいた、というオチがつくので「ああ、銀河鉄道の旅ってジョバンニの夢だったのか」と一応は納得するのだが。今回の脚本となった第3次稿にはそれもないので、カムパネルラがなぜふっと消えたのか、結局のところ、よくわからない。
ではこの物語は、夢のような空想を描いたファンタジーなのか。いや。むしろ、ここに描かれている「よくわからない世界」の方が、実はリアルなのかもしれない。だって考えてみれば現実の人生って、よくわからない事件の連続で、オチも理由も何もない方が普通なのだから。急病や事故や震災といった不慮の出来事があれば、明日も続くと思っていた日常はカムパネルラのようにふっと消えてしまう。生きるか、死ぬか。見えるか、見えないか。ここにいるのか、いないのか。二つの世界がはっきり違っていて、その間には境界が存在するという思いこみの方が、実はよほど「ファンタジー」なのではないか。
だから能楽師の安田登さんがこの作品に惹かれるのは、よくわかる。能もまた、この世とあの世の境界がもやもやっと溶け合った状態、つまり「あわい」を、ある意味きわめてリアルに描き出す芸術だからだ。安田さんによれば、何かと何かの距離を示す「あいだ」という言葉に対し、「あわい」とは何かと何かが重なり合う場だという。
時空を超えて生と死が、此方と彼方が、現在と過去が出会う場所。古くは『2001年宇宙の旅』や『惑星ソラリス』から近年の『ゼロ・グラヴィティ』『インターステラー』まで、多くのSF映画では、宇宙がそんな「あわいの空間」として描かれてきた。本作のジョバンニたちも宇宙空間で、遠い大西洋に沈みゆくタイタニック号の乗客になぜか出会ってしまう。さらに今回の公演では、水に沈んでいく乗客たちの諦念が、どこかから響いてくる琵琶の音色と共に、戦に敗れて入水する平家一族の悲劇にまで重ね合わされていく。本来は出会うことのない時空が、感情の強烈な振幅によって同期し始めてしまう。
こうした異質な時代や地域や文化の「あわい感覚」は、本公演のキャスティングにも反映されている。伝統芸能、現代演劇、クラシック音楽、邦楽、民族音楽、電子音楽…… 他ではおそらく出会うことのない不可思議な組み合わせの演者たちが、今回の上演という「あわいの空間」で、この場限りのセッションを展開することになるだろう。また、物言わぬ人形が演じるジョバンニやカムパネルラの姿も、声だけで物語を紡ぎ出す俳優の言葉も、次第にどちらがどちらか、よくわからなくなっていくことだろう。銀河鉄道の夜には生と死の境も、現実と非現実の境も、ふわふわと全てが溶け合っていくように。
というわけでこのよくわからない舞台、列車の窓から見える景色のように、ただぼんやりと眺めていただけたら幸いである。 ── さあ、そろそろ発車の時間が来たようだ。旅立とう、銀河鉄道の夜へ。
ヲノサトル