2022年12月25日に上演する『銀河鉄道の夜』。当日パンフレットに掲載の安田登の文章です。
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《「あわい」の物語としての『銀河鉄道の夜』》
「『銀河鉄道の夜』は能の旅の物語だ」
そう思ったのが、この作品を上演しようと思ったきっかけでした。死者であるカムパネルラは能でいえばシテでしょう。そして、ジョバンニはワキです。
能のワキは「分く」を語源とする語で、死者の世界と生者の世界の両方にまたがる「境界(ワキ)」に存在する人です。ワキとしての境界は「間(あいだ)」ではありません。ふたつの世界に、同時に存在する、これを日本語では「あわい」といいます。「あわい」は「逢う」を語源とする語で、ふたつの世界にまたがる空間・時間をいいます。
ワキは生者でもあり、死者でもある、「あわい」の存在なのです。
能で、その人がワキになるのは、人間生活に絶望したり、人々から迫害されたりして、人間世界などもうどうでもよくなってしまったからです。
イエス・キリストは、「貧しい人は幸いである」といいました。天国はそのような人のためにあるとすら言いました。
イエスの言葉を書いた『新約聖書』は最初、ギリシャ語(コイネー)で書かれました。ギリシャ語では、この「貧しい」を「プトーコス」といいます。これは、もともとは「屈服した状態」をいう語です。人から足蹴にされ、罵倒され、身を縮こめた状態がプトーコスです。貧しい人はそういう仕打ちを受けやすい。
しかし、そんな人こそが「幸い」であり、天国に行ける、そうイエスは言います。
能でいえば、そんな人だからこそ神の声を聞いたり、亡き人の声を聞いたりする「ワキ」になれるのです。
ジョバンニも、友だちからも仲間外れにされ、そして貧しさのためにお母さんに牛乳を買うこともできません。だからこそ、ワキとして死と生との「あわい」の空間である、幻想第四次空間を銀河鉄道に乗った旅ができるのです。
今回の上演では、宮沢賢治の「3次稿」を使います。書店などで入手しやすいのは4次稿です。3次稿には「黒い帽子の男」や「ブルカニロ博士」というキャラクターも登場します。カムパネルラと別れたジョバンニは黒い帽子の男から「あらゆるひとのいちばんの幸福(さいわい)をさがし、みんなと一緒にそこに行ったときに、またカムパネルラに会える」と言われます。しかし、この幸いはイエスのいう幸いとは少し違います。違うということは書かれていますが、しかしそれが何であるかは書かれていません。
それは私たちが、考えることだと賢治から問いを与えられました。ちなみに今回の上演でもその答えは何も提示されません。ぜひ、お考えいただければと思います。
この上演では、ジョバンニとカムパネルラは山下昇平氏の人形で演じます。人形は人ではありません。しかし、物でもない。人形は人と物体との「あわい」の存在です。
「声」も声優、俳優、能楽師、浪曲師、声楽家と東洋、西洋のさまざまな声が「あわい」を作り出します。「音楽」も電子音楽、チェロ、琵琶、笙、シンギングボウル、打楽器とこれまた世界中の音がさまざまな「あわい」を作り出す。
そして背景に映し出されるますむらひろしさんの絵は、人間世界と異世界との「あわい」であるだけでなく、人間と猫との「あわい」です。
みなさまも半分うとうとしながら、睡眠と覚醒の「あわい」で今日の上演をお楽しみいただけたらと思います。
今日はお出ましいただき、ありがとうございました。
安田登